久しぶりに来てみたら、「承認待ちのコメントが2件あります」だって。
いそいそと見てみたら、スパムだった。前も少しあったから、承認制にしておいてよかった。
届かないよ、ざま無いねと思いつつ削除した。
日記のデザインは持っているお財布みたいなかわいいのを見かけたので、真似した。


D

乙女というキーワードに無闇に惹かれてしまった。
タイトル通りにゆらゆらふわふわした、とてもいい感じ。
部屋の増えすぎた荷物を処分していく中で、思春期から最近まで集めたCDをだいぶと手放したのだけれど、その内容は、サビに向かって絶叫するような、例えばこっこ*1とかメタルのものとか、そういう音楽性のものが多かったなと思った。音楽によってフラストレーションを燃焼させることを必要としていた時期が過ぎたのか、20歳を越えて、そういう苦しさや辛さを持続させるだけの体力・気力がなくなったのかもしれない。おしゃれっぽい音楽なんてぬるいって斜に構えてたけれど、何でも好きになってみるものだ。拒絶よりも、認めた方が世界が広がるなあ。
就職して、車通勤をするようになったら、終業後、車に乗ると、仕事のことをきれいさっぱり忘れられるようになった。(だから学習しないという弊害もあるけれど)切り替えが上手くなったのかな。

みくしでもうだうだ言っていたけれど。
今年の初夏まで大好きだった怪談本も夏にきっぱり手放した。
怪談を読むとぞっとする変わりに、落ち込んだ気持ちがそのぞっとした気持ちでどっかに行ってた。一種のストレス解消だったのだけれど。
これだけは…と思って残しておいた新耳袋の文庫本もかもんななみさんのも、図書館に入ってるから、と市内のとこに無くても、他の市にはあるからと手放した。
漫画も、漫画喫茶にありそうなもの、ツタヤで借りられるものをまず手放していって、若槻めぐみさんとかメルヘンめーかーさんとか、古いから売っても廃棄になっちゃうかもしれないけれど、でも読まないし、とさよならした。球体間接人形の写真集とか、本棚の中でコレクションと化しているものも、すごく迷ったけれど、手放した。諸星せんせの漫画も、大好きだけど、漫画喫茶にあったから手放した。
私の部屋の中で一番場所を取り続けた本・漫画を多分、20分の1くらい減らしたと思う。
ダンボールに詰めたりや風呂敷に包んで売りに行くとき、その多さに我ながら呆れてしまった。
(みかん箱4個分くらいの量を休みのたびにあちこちの中古屋さんへ売りに行ってた)

以前は本を手放すなんて思いもしなかったけれど、一旦踏ん切りがつくと、要る要らないの判断がすぐつくようになった。
視覚的に広くなった部屋にいても、居心地の悪さを感じないことが不思議。
前、物が多かったときは、片付いてしまうと、心がうそうそとして居心地が悪かったから、また物で埋めてた。
気持ちの整理も出来ているからだろうか。前は駄目な自分にうんざりしてたんだ。

ちゃんとした人になりたいと思っていて、でも私にはそういう価値は無いと、自分で自分をどうしてか許せなかったけれど、化粧をするとか、おしゃれをするとか、そういうことを楽しんみよう、楽しんでもいいんだってやっと前向きになれてきた。
「ならなきゃいけない」っていうやらされてる感…義務感がどっかに抜けてったようだ。
この夏からこっち、部屋の様子と共に私は変わってってるなあと思う。維持、しよう。

自分が思ういい方向に私は変わっていってるな、と思うけれど、人を僻んだり嫉むような根っこはまだある。でも今日、ひさしぶりにはてなをあちこち彷徨ってたら、女子力がどうの、という話題の中で、誰かが言ってた(うろ覚えだけど)他のかわいい子を妬むなら、その気持ちをその子みたいになれるよう行動するガソリンにすればいいという文章を読んで、目から鱗のような、許されたような気持ちになった。
もやもやした気持ちを押し込めるんじゃなくて、行動することへ動機付けにすればいいのかって分かったら、自分の中のネガティヴな部分て北海油田みたいなお得な存在に思えてきた。

誰かに肯定してもらわないと、自分で自分を認められないのは情け無い気もするけれど、より生きていきやすい方向へ変わっていけてるんだと思っておく。

表面上は片付いている部屋だけれど、箪笥の中はまだ魔窟。
この連休中に戦って勝つ。がんばる。

*1:以下、固有名詞は誤変換してみる。自分が好きな人のこと検索かけて手放したって話読むのちょっと悲しいから